私自身のこれまでについて、自己紹介をさせていただければと思います。
私の生まれた場所は、茨城県の鹿嶋市です。 5歳ごろに石川県へ移り住み、松任市(現在の白山市)で育ちました。いたるところに川や用水があり田んぼに囲まれた景色が、私の原風景です。
その後、石川県の内灘町や、大阪市の東成区にも住んでいたことがあります。
昔から、知らないところに行くのが好きでした。
行きと同じ道で帰るのは好きじゃなくて「こっちに行ったらどこに出るんだろう?」と探検するのが好きな子どもでした。
趣味でスキューバダイビングをやっていたこともあり、初めての海外旅行は、ダイビングツアーで訪れたパラオでした。見たことのない海の色と、日本と違う異国の匂いにワクワクしたのをよく覚えています。



パラオで異国の匂いに取り憑かれて、20代の頃にはバックパッカーとして旅するようになりました。
これまで訪れた国や地域は、
アジアでは、タイ、インド、ネパール、ベトナム、カンボジア、中国、マレーシア、インドネシア、台湾、韓国、ラオス、シンガポール、バングラデシュ。
モルディブやパラオの美しい海にも感動しました。






中東やアフリカでは、ウズベキスタン、アラブ首長国連邦、トルコ、エジプト、モロッコへ。
ヨーロッパでは、ブルガリア、ギリシャ、イタリア、フランス、スペイン、ポルトガル、スイス、ドイツ、ベルギー、オランダ、チェコ、スロバキア、ポーランド、イギリス、アイルランド、ハンガリー、オーストリア。
ヨーロッパにはバチカンやモナコ、ルクセンブルクといった小さな国があるのも面白いですね。
その他にも、ハワイやニュージーランドなど、たくさんの場所をこの足で歩いてきました。






このように若い時期は旅をしながら過ごしていましたが、30歳を過ぎた頃、この「旅好き」が仕事になりました。
金沢市にあるVACATIONという旅行会社で、オーダーメイドの海外旅行を企画する仕事に就いたのです。
お客様は主にハネムーンで旅行される方々。じっくりとお二人の話をお伺いし、その方たちだけの特別な旅のプランをプロデュースする仕事は、まさに天職だと感じていました。
海外旅行プロデュースの仕事について10年ほどが経った頃、世界はコロナ禍に見舞われます。
海外旅行を扱っていた私の仕事は真っ先に影響を受け、休業となってしまいました。
ただ家で待機するだけの時間。しかし、これを何か新しいことを始める良い機会だと捉え、映像制作の勉強を始めることにしたのです。
当時、外出が制限される中でYouTubeなどの動画メディアが大きく伸びており、動画編集は在宅でできる副業としても注目されていました。そこで私も、YouTubeの動画を先生代わりに、独学で編集技術を学び始めました。
初めていただいたお仕事は、あるYouTuberの方の編集下請けでした。自称港区女子が怪しいおじさんから投資の話を聞くという、まぁ微妙な動画です 笑
実績のない新人でしたから単価は安く、時給に換算すると、まあ悲惨なものでした。
そこで、編集だけでなく撮影も自分でやってみよう、と思ったのが転機になります。
特に地方では「YouTubeなどで動画発信を始めたいけれど、どう撮影していいか分からない」という声を耳にしました。
せっかく地方に住んでいるのだから、撮影から編集まで一貫して引き受けられたら、価値を提供できるかもしれない。
そう思い立ち、まずは友人や知人のお店・事業のPR動画を無償で作るところから始めました。
この活動を続ける中で少しずつお仕事が増えていき、現在の映像制作事業の原型となっていきました。
カメラも、最初は10年前のハンディカムから練習を始め、最初に買ったのは3万円のアクションカメラでした。
そこから一眼ミラーレス、ジンバル、ドローン、360度カメラと、少しずつ機材を増やしてきました。
機材も実績も、なんとかプロの端くれと呼んでいただけるところまで来ることができたかな、と感じています。
世間がまだコロナ禍を引きずっていた頃、旅行会社の業務はすっかり様変わりしていました。
海外の仕事は全く復活する様子が無く、出社してもGOTOトラベルの事務処理や関連事業の手伝いなどが主な仕事でした。
そんな中、制作した映像を納品したご縁から、地元の行政の方から街興しの仕事にお声がけいただきました。
海外旅行の仕事が復活する先行きは不透明でしたし、これまで培ってきた映像制作や旅行の知識が活かせるかもしれない。そう考え、10年お世話になった旅行会社を退職し、そのお仕事をお引き受けすることにしました。
そして、この街興しのプロジェクトが、私の人生をまた大きく変えることになります。 担当した事業の一つに「糀」を使ったものがあり、その縁で私は糀や発酵の世界に初めて出会いました。




全く知らない世界はとても新鮮で、私は少しずつその魅力にのめり込んでいきました。
やがて「自分なりの育て方で米糀を作ってみたい」という気持ちが芽生えます。当時、息子が通っていたプログラミング教室の先生に手伝ってもらい、教育用のマイコンを使って糀を育てる小さな装置を自作しました。



これが独自の培養方法の米糀となり、後の糀シロップへとつながっていきます。
行政での仕事は1年半ほどで区切りを迎え、その後、個人事業主として独立しました。
映像制作と発酵食品、二つの事業を並行して進める日々の始まりです。
独立後、ご縁があって入った「石川イノベーションスクール」では、糀シロップのビジネスモデルを研究し、最終プレゼンでは優秀賞をいただくことができました。



また、このご縁をきっかけにサポートしていただくことになった方やお仕事をいただくことになった方もたくさんいます。
振り返ってみると、様々な出会いの中で少しずつハンドルを切りながら、今の場所に行き着いたように感じます。
なんとも計画性の無い人生ですが、私の行動の根っこには、いつも「好奇心」があったのだと思います。
長くなりましたが、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。